えせバックパッカーの旅日記|
■おことわり■ [2006/4/22追記] |
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夜中に一度トイレに起きたが、次に目が覚めときはもう5時だった。 我ながら よく寝たものだ。
今日は今回の旅の目玉であるチェルノブイリ・ツアーである。
1人あたり100ドル以上も払ったのだから、いやがうえにも期待は高まる。
ところがいつまでたっても迎えが来ない。
たまりかねてふゆきがサムトラベルに電話を入れると、
予想どおり、
「まだ担当者が来ていない」と言われてしまった。
9時になって再度電話すると、 9時20分、中肉中背の中年男性がせかせかと正面玄関から入ってきた。 私たちを見つけると手を差し出しながら「ニコライ」と自己紹介し、 「ツーリスト・ホテルでずっと待っていたのだ」と 書類を見せてくれた。 ツーリスト・ホテル! それは最初にキエフの宿泊のことを問い合わせたとき、 オルガが打診してきたホテルだ。 私たちはガイドブックを見て検討し、結局ホテル・ウクライナを リクエストしたわけなのだが、オルガは 私たちの回答を待たずに書類を作り、 それを訂正するのを忘れてしまったのだろう。 ったくもう・・・。 電車の切符の件もそうだけど、 オルガは仕事が速いけど、ミスが多い。 しかし文句を言っている場合ではない。 私たちは大急ぎで車に乗りこんだ。 残念なことに、エアコンは付いていなかったが、 ニコライ氏が遅れを取り戻そうと、 キエフ市内をびゅんびゅん飛ばすので、 とても涼しい。(冷や汗も出るし。) 町を出ると、ほとんど他の車はいなくなった。 ニコライ氏はめいっぱいアクセルを踏んでいるが、 この車は時速100キロ程度しか出ないようだ。 |
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11時、"KPP"という謎の言葉が書かれたゲート着。書類を見せて通過。 次に 「チェルノブイリ」と書かれたゲートを通る。 ここからは無人の世界になるのだろう。と思っていたら、 けっこう人の気配がある。 こんなことでいいのか? 危険じゃないのか? 11時20分、2階建てのこじんまりした建物に到着した。 これがチェルノブイリのビジターセンターである。 車を降りると、30歳くらいの男性が英語で話しかけてきた。 この人が今日のガイドだった。
私たちはまず2階のセミナー室のようなところに案内され、
今日の行程の説明を受けた。
ガイド氏は
壁に貼ってある地図を指し示す。
説明が終り、いよいよ出発。
車に乗りこむと、
ガイド氏は放射能測定器を取り出し、
数値を見せてくれた。
最初に連れて行かれたのは、倉庫のようなところだった。
何かと思ったら、果てしなく広大な更衣室である。
きっと原発が健在だった頃は
たくさんの従業員がここで着替えをしていたのだろう。
担当のオバチャンが出てきて、あれやこれやと世話を焼いてくれる。 連れて行かれた先の小部屋には、 山ほどのズボンやらシャツやらがきちんと畳んであり、 オバチャンが、 その中から適当に身体に合いそうな服を 見繕ってくれた。 とは言え、すべてロシア人(ウクライナ人)仕様。 チビの私たちの身体に合う洋服なんかあるはずがなく、 結局ぶかぶかである。 それにどれも洗濯の利いたごくごく普通の服である。 放射能よけのゴムみたいなすごい特別服を期待していたのに。 手術のときにお医者さんがかぶるような、 白い布でできたキャップをかぶると、隣りの小部屋へ。 ここは靴の部屋。 どれもまたぶかぶかであるが仕方がない。 |
車で4号炉へ向かう。
最初に見えてきたのは
消火活動に命を捧げた消防隊員の記念碑だった。
コンクリート製で、
きわめてソ連チックな代物である。
一番上に十字架が見える。
次は5号炉。 爆発事故当時、 建設中だったので、 結局一度も稼動することなく、打ち棄てられたのだそうだ。 いよいよ 4号炉に近づく。 私たちは車から降り、 小さいがとてもきれいで近代的な建物の 2階に案内された。
それはエアコンの効いた部屋で、 窓のすぐ外に4号炉が見えた。 ここで、4号炉のシェルターがどのように作られたのかという、 技術的で(私たち素人にとっては)きわめて難解な説明を受けた。 説明してくれるのは、専門の職員であり、彼が喋るのはロシア語である。 何一つわからないロシア語を一生懸命聞いても意味が無いのに、 目の前で説明されると、 ついつい聞き耳を立ててしまうのが我ながら不思議。 すると 頭が英語モードから離れてしまい、 ガイド氏の英語がさっぱりわからなくなる。 それにしても、 いつも同じような説明なのだろうなあ、 このガイド氏、本当にきちんと通訳してるのかしら、 内容を覚えていて喋っているだけだったりして・・・ など、いらぬことを 考えているうちに、 説明は終った。
この部屋には世界各国の旗が飾られていた。
これは、4号炉のシェルターを建設する際に
経済援助をしてくれた国の国旗なのだそうだ。
各国の援助額が表で示されている。
ここで再び放射能測定器の登場。
さすがに4号炉にこれだけ近いと、
かなりの数値が出る。 |
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再び車で移動。
またゲートがあり、その向こうには高層アパート群が見える。
間もなく無人の遊園地が見えてきた。
もう2度と動くことのない観覧車。
(こんな言い方をしては角が立つかもしれないが)
実に絵になる風景である。
週刊誌かなんかのグラビアで見た覚えがある。
住宅の中を見てみたいか、と訊かれ、 見たいと答えると、車はうっそうと生い茂った木立の中の、 くねくねしたアプローチをたどった。 共産主義国の職員住宅というのは、 もっと直線的で、非人間的な作りになっているのではないかと思っていたのだが、 このくねくねアプローチはいい。設計者の心を感じさせる。 「共産圏=非人間的」と単純に決めつけてはいけないのだと実感した。
車はやがて、1棟のアパートの前に停まった。 ガイドの後について、中に入る。 怖いくらいの荒れようである。 人が住んでいた匂いがいまだに濃厚にたちこめていて、 いくら見ても見飽きない。まだまだ見たかったが、 ガイドに促されて外に出た。
4号炉の事故を、
当時のソ連政権はひた隠しにしたが、
職員住宅の居住者に対してさえも、
爆発の事実は丸1日、伏せられていたそうだ。
結局、立ち退き命令が出て、住民たちは家を出たのだが、 当初はすぐに帰れるという話だったので、 彼らが持っていったのは、身の回りのものとお金だけだった。 でも、実際には長いこと帰れなくなってしまったわけである。 しかたがないから別の土地に落ち着こうと思っても、 共産主義の時代だったので、 お金を持っていたところで、必要なものがすぐに買えるわけではなかった。 盗まれた家具がブラックマーケットに出まわっていた、 などということもあったという。 また、多くのペットが残され、 ずっと後になってから戻ることが許可されたときには、 家の中は悲惨な状況になっていたらしい。 死んでいるペットもいたし、野生化したものもいた。 ガイドの話を聞いているうちに、 気がつくと、車はあの広大な更衣室の前に来ていた。 オバサンに迎えられて、 自分の服に着替える。 このオバサンはどんなシフトで勤務しているのだろうかとふと思う。 4日勤務、3日オフなのかな? |
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車でビジターセンターに戻り、 ここで昼食になった。 もう2時。ニコライ氏があんなにすっとばしてくれたのに、 朝の遅れを取り戻すことはできず、 予定の1時を大幅に過ぎてしまった。 質素な食堂に通され、 テーブルの上の お皿にこんもりと盛りつけられたサラダやハム に感嘆の声を上げたら、 そのあとにはきしめんのようなものの入った野菜スープが出た。 メインディッシュはチキンカツ。 つけあわせはじゃがいも。
ガイド氏も一緒に食事をしたので、いろいろ話を聞くことができた。
ロシアからの分離・独立以来、いろいろなことがあったが、
こと教育制度に関しては、
義務教育期間の大幅な短縮がなされるなど、
明らかに悪くなっているという。
「教育に関して、国はもうあまり面倒を見る気はないから、
それぞれの親が自分でなんとかしろ」
という政策なのだそうだ。
彼の第2の職業は英語教師だそうだ。
2週間ごとに家族のもとに帰ったとき、
英語を教えているのだろう。 デザートには、クレープのようなものが出た。りんごをはさんでソテーしてある。 私たちの感覚では2食分の量で、ふう、お腹一杯、と思って 時計を見たら、もう3時を過ぎていた。
急いで車で出発。
原発の敷地を少し出た農村地区を目指す。
そこは居住禁止になっているのだが、
不法居住者が少なからずいる。
その多くは高齢者だそうで、政府も黙認しているらしい。
車は畑の中の土の道をがたがた走り、 小さな家の前で停まった。 中から小柄なおばあさんが出てくる。 おばあさんはガイド氏と旧知の間柄のようで、 実に楽しそうにいつまでもお喋りしている。 そして「これがうちの鶏。あれが豚」と見せてくれ、 最後に家の中も見せてくれた。
部屋は長いこと掃除をしていないようで、 あまり神経質なほうではないこの私が どきっとするほどの乱雑ぶりだった。 それに匂う。 何かが腐りかけなんじゃないかしら。 食べかけのパンがテーブルの上に見える。 台所は居間と寝室を兼ねているようで、 キッチンセットの脇にベッドがあるのが面白い。 でも、奥の部屋----きっと客間なのだろう----だけがきちんと片付いている。 ここには、おそらくおばあさんの宝物だろうと思われる ミシンが置いてあり、 おばあさんお手製の細かい刺繍をほどこしたクッション がベッドの上にきれいに重ねてられている。
おばあさんと一緒の写真を撮らせてもらって、私たちは
その家をあとにした。 |
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再びビジターセンターに戻り、ここでガイド氏とはお別れである。
ニコライ氏運転の車は、途中でキエフに行く道からそれた。 しばらく行くと、道路の脇に、見えてきたのである。 飛行機が。本当に置いてある。 何機も、何十機も。 それだけではない。数え切れない車両も野ざらしになっている。 これはいったい・・・? あまりの不思議さに圧倒され、 意味もわからずに写真を撮ったあと、ふゆきがニコライ氏に質問した。 これはチェルノブイリの消火作業やシェルター建築作業のときに 使われた車両と飛行機で、 放射能汚染がひどいため、 ここに廃棄されたのだそうだ。 いわばここは飛行機と車両の墓場というわけである。 鉄条網で囲まれた墓場には犬がいた。そしてその飼い主も。 それはここの管理人の男性だった。 こんなところにも管理人がいるなんて、 この国はよっぽど人手が余っているのだろう。 それにしても、彼の勤務形態はいったいどうなっているのだろうか? まさか1年中、放射能に汚染された車両と一緒に 過ごしているわけではなかろう。でも、ロシア語オンリーの ニコライ氏にそんな難しい質問をするすべは、私たちにはなかった。
ニコライ氏は「敷地の中を歩いてみたいか?」と 訊いてくれたが、 私たちはかなり疲れていた。 1日に見る量としてはもう十分と感じ、 まっすぐキエフに帰ることにした。 帰りも 飛ばし屋ニコライ氏は元気だった。 キエフの町に入ってからも、 わざと抜け道を通り、せっかく通ったのに他の車よりも早く行けなかったと舌打ちし、 常に前の車を抜かすチャンスをうかがう。 今朝あんなに飛ばしたのは、特に急いでいたわけではなく、 ただ好きで飛ばしていただけんじゃないだろうか。 彼にもっと性能の良い車のハンドルを握らせたら、 どんなにか喜ぶことだろう。 想像するだに恐ろしい。 ホテルに戻ったのは6時。 ふう。 |